母親になるということ | ノスタルジック小学校

母親になるということ


最近知り合ったママがいる。

偶然にも私と同い年で
ウチの末姫と、彼女のひとり娘が同じ学年にあたる。

彼女が
やたらと私のことをはおちゃんはおちゃんと名前で呼んでくれる。
まわりのママたちのこともみんな、やっぱり名前で呼んでいる。

あるとき彼女が言った。

私、誰々さんの奥さんとか誰々ちゃんのママとか
そういう呼び方されたくないんだよね。
私は私じゃん!
ちゃんと名前があるんだから、名前で呼んでよ!って感じ。
あなたはどう?


そうだなぁ。

思わず考え込んでしまった。


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正直に言えば
彼女の気持ちも分からなくもない。
というより
私もそんなふうに思っていた時期があったように思う。

今となっては
「○○ちゃんのママ」 と呼ばれると、こっちとしても
ああ、この人はウチの○○に関係した人なんだなと
会話の前に心づもりが出来てありがたい。
三人も子どもがいると、誰が誰の母親かなんてすべて把握しきれるもんじゃないんだから。

まあそんなことは置いといて。

母親になるということは
自分の中のありとあらゆるスイッチをひとつずつ切っていくことにほかならないと思う。
ぱちん、ぱちんという具合に。

一日が24時間すべて自分だけのものだという感覚――ぱちん、OFF。

なにかをスケジュール通りにこなそうとする感覚――ぱちん、OFF。

こっちに行きたいと思って、まっすぐにそこに向かうという感覚――ぱちん、OFF。

10のものが散らかってしまった時に、
10のものすべてを片付けようとする感覚――ぱちん、OFF。


そのたくさんのスイッチは
それまでの自分を形成してきた一部だから
こんなにぱちんぱちんと切り続けていくことに抵抗があるかもしれない。
拠り所をなくすように思えてしまうかもしれない。
だけど
そうやって
どんどんスイッチを切っていってこそ、
初めて子どもとゆっくりと向き合えるんじゃないかと思う。

母親になるということは
自分のいちばん大事な部分だけを残して
外側にある分厚い飾りのようなものを
きっとすべてそぎ落とすことから始まるのだ。

そしてそのいちばん大事な部分を
ときに天使で
ときに宇宙人で
ときに怪獣で
小さくて不可解で可愛らしい愛すべき我が子に
不器用ながらも一生懸命に伝えるということなんじゃないだろうか。


彼女は
自分は自分だと言う。
それは全然間違ったことじゃないんだけれど、
子育てのあいだは、ちょっとだけ回り道をしてみてほしいなと
そんなふうに感じた。


その結果
小学校卒業間際の参観日の作文で
「お母さんはこんなことばっかりやってるんだ」
なんて書かれたりしてもね(笑)。


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父親になるということは私の想像の埒外です。
――いったいどんなんだろう。