ノスタルジック小学校 -5ページ目

母親になるということ


最近知り合ったママがいる。

偶然にも私と同い年で
ウチの末姫と、彼女のひとり娘が同じ学年にあたる。

彼女が
やたらと私のことをはおちゃんはおちゃんと名前で呼んでくれる。
まわりのママたちのこともみんな、やっぱり名前で呼んでいる。

あるとき彼女が言った。

私、誰々さんの奥さんとか誰々ちゃんのママとか
そういう呼び方されたくないんだよね。
私は私じゃん!
ちゃんと名前があるんだから、名前で呼んでよ!って感じ。
あなたはどう?


そうだなぁ。

思わず考え込んでしまった。


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正直に言えば
彼女の気持ちも分からなくもない。
というより
私もそんなふうに思っていた時期があったように思う。

今となっては
「○○ちゃんのママ」 と呼ばれると、こっちとしても
ああ、この人はウチの○○に関係した人なんだなと
会話の前に心づもりが出来てありがたい。
三人も子どもがいると、誰が誰の母親かなんてすべて把握しきれるもんじゃないんだから。

まあそんなことは置いといて。

母親になるということは
自分の中のありとあらゆるスイッチをひとつずつ切っていくことにほかならないと思う。
ぱちん、ぱちんという具合に。

一日が24時間すべて自分だけのものだという感覚――ぱちん、OFF。

なにかをスケジュール通りにこなそうとする感覚――ぱちん、OFF。

こっちに行きたいと思って、まっすぐにそこに向かうという感覚――ぱちん、OFF。

10のものが散らかってしまった時に、
10のものすべてを片付けようとする感覚――ぱちん、OFF。


そのたくさんのスイッチは
それまでの自分を形成してきた一部だから
こんなにぱちんぱちんと切り続けていくことに抵抗があるかもしれない。
拠り所をなくすように思えてしまうかもしれない。
だけど
そうやって
どんどんスイッチを切っていってこそ、
初めて子どもとゆっくりと向き合えるんじゃないかと思う。

母親になるということは
自分のいちばん大事な部分だけを残して
外側にある分厚い飾りのようなものを
きっとすべてそぎ落とすことから始まるのだ。

そしてそのいちばん大事な部分を
ときに天使で
ときに宇宙人で
ときに怪獣で
小さくて不可解で可愛らしい愛すべき我が子に
不器用ながらも一生懸命に伝えるということなんじゃないだろうか。


彼女は
自分は自分だと言う。
それは全然間違ったことじゃないんだけれど、
子育てのあいだは、ちょっとだけ回り道をしてみてほしいなと
そんなふうに感じた。


その結果
小学校卒業間際の参観日の作文で
「お母さんはこんなことばっかりやってるんだ」
なんて書かれたりしてもね(笑)。


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父親になるということは私の想像の埒外です。
――いったいどんなんだろう。


お母さんの仕事

6年生最後の授業参観が終わった。

内容は国語の作文発表。

作文のテーマは、ありがとう

誰に宛ててもいいから、ありがとうの気持ちを込めて
作文を書きましょうというものだった。

誰に書いたらいいか分かんないよー
という子どもたちには
先生が
じゃあ、お母さんに書いてみようか
と提案したらしく、
クラスの3分の2の子どもたちは母親に宛てた作文だった。

残りの3分の1の子どもは、何かしら相手を見つけていて
例えば
きょうだいであったりとか
担任の先生とか
父親やおばあちゃん、
友だちや
クラブ活動の先輩だった子のこととか
なかなか聞いていても面白い作文が多かったように思う。


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まあ
授業参観に来るのはほとんどが母親だろうから
クラスの多数の子が自分の母親に宛てて作文を書くというのは
間違ったことじゃないんだろうけれど
こう言っちゃナンだけど
みんな似たり寄ったりの出来上がりになったのも仕方がないことなのだろうか。

私は、お母さんが具合が悪い時に、夕飯のかたづけをしました。
家族のお皿を洗っていると、
「けっこう大変だな。お母さんは毎日こんなに大変なんだ」
と実感しました。


とか

僕は夏休みに、家の手伝いで洗濯物をたたみました。
みんなの洗濯物をひとつずつたたんでいると
お母さんは毎日こんなことをしているんだと思い、
お母さんは大変なんだと分かりました。
これからはもっと手伝いをしようと思います。


とか

料理を手伝ったら大変だったとか、
朝早くからお弁当を作って大変だとか、
いつも家の中の掃除をして大変だとか、

聞けば聞くほどどこの家庭も似通っている。


不謹慎かもしれないけど、もうちょっと異色の家庭もあっていいんじゃないだろうか。


うちのお母さんはゴーストバスターズですとか
演歌歌手になるために毎日一生懸命に発声練習していますとか
徳川埋蔵金について長年研究していますとか

ほぉ、と感心するような話題もほしいよなと思ってしまった。

だって
授業が終わってから
廊下で
作文の主人公になったお母さん方が集まって口々に言っていたんだから。


あたしたちってさぁ、
どうせ毎日
「こんなこと」って書かれるようなことぐらいしかしていないんだよねぇ・・・。
「お母さんは、毎日こんなことで大変なんだ」って書かれると
大したことやってないって言われているみたいで
なんだか空しくなってきちゃったよ・・・。



お母さんにありがとうを伝えるというのは
なかなか難しいことみたいだ。


仰げば尊し

知人夫婦の会話である。

うちと同じで、6年生の子どもがいる。

「ねえねえ、卒業式に 仰げば尊し 歌わないんだって。」
「へえ、じゃあ何歌うの?」
「たしかねぇ、・・・3月9日だったかな。」

「・・・日にちじゃなくってさ、何歌うんだよ?」

「だからぁ、たしか、3月9日よ。」
「日にちは分かったよ、しつこいなぁ。オレは卒業式に何を歌うかって聞いてんだよっ!」



あわや夫婦喧嘩である(笑)。

でも
これは本当の話で
うちの子が通う小学校では、どうやら卒業生は仰げば尊しを歌わないらしい。

かわりに歌うのが 
レミオロメン3月9日なのだ。

この間までフジテレビで放送していた1リットルの涙というドラマの中で
主人公の女の子のクラスで合唱した歌である。
実際の卒業式は3月9日じゃなくてもうちょっと後なんだけどね。
ややこしいよね。

でも
個人的な感想を言わせていただくなら、
卒業式に仰げば尊しを歌わないなんてちょっとひどすぎる。
卒業生はあの歌を歌ってこそきれいに学校を卒業できるというものだ。
サビ部分の
いーまーこそー わかぁーれめー
のあたりで親は涙を流しハンカチを握り締め、子どもはぐっと涙をこらえる。
そして軽いフェルマータの後に
いざー さらぁーあーばー
としっとり歌いあげるあの感動。

あれがないとちょっと卒業式とはいえないんじゃないだろうか。

別にレミオロメン歌っても森山直太朗歌っても
オフコースでもドリカムでもミスチルでも何でもいいんだけどさ、
仰げば尊しもできれば最後にちゃんと歌ってほしい。
そりゃあ
最近の卒業式で歌わなくなった背景なんてのもいろいろあるようだし、
一理あるよな、なんて思わなくもないんだけれど。

思うんだけど
日本って世代を超えたスタンダードというものが、あまりになさすぎるような気がする。
おじいちゃんおばあちゃんから子どもまでがそろって歌えるのは
キャンプファイヤーの燃えろよ燃えろくらいのものじゃないですか。

美空ひばりでも石原裕次郎でも尾崎豊でもなんでもいいけれど
時代を超えてみんなで口ずさめる歌みたいなのが
この国に
もっとあってもいいんじゃないかなと思うんだけれどどうなんだろう。

そういう姿勢を作り上げるにはいったい何が足りないんだろうか。

ひとつには
国民レベルでの歴史的解釈かもしれない。


他にはなんだろう。


――レミオロメンで泣けるかなぁ。


白い鳩


ぶらりと鶴岡八幡宮に出かけた。

本殿へのお参りをすませて、ぷらぷらと歩いていると
中学生と思われる一団がやって来た。
一団といっても
数人ずつ固まって
あちこちを思い思いに散策している様子である。

修学旅行だろうか。
それとも社会科見学だろうか。
急ぐふうでもなく、みんなゆっくりと歩いている。
デジカメで写真を撮ったり
手に持った冊子と辺りを見比べたり
砂利を踏みしめる音もそこだけ心なしか軽やかだ。

鶴岡八幡宮には
源氏池平家池とがあり、
源氏池には白い蓮三つの島
平家池には赤い蓮四つの島がある。

三は産に通じ、源氏の繁栄を、
四は死に通じ、平家の滅亡を、
それぞれ祈願して築かれたのだとか。

そして
白い蓮に誘われるように、
不思議なことに
源氏池には白い鳩が集まるのだと聞いたことがある。

源氏池の島のひとつに祀られている旗上弁財天は
そんなわけで
白い鳩がたくさん見られることで有名だ。

そう
ここは白い鳩が有名なのだ。


************


やがてぷらぷらと
弁財天めざして歩いていると
先ほどの中学生のうちの、とあるグループとすれ違った。

女の子ばかりの5~6人の
制服姿のグループが
きょろきょろしながら歩いている。

すれ違いざまに聞こえてきた。

・・・白い鳩なんて いなくねぇ?

・・・いねぇ いねぇ。

しばらくすると
今度は男の子のグループがやって来た。
同じようにこちらも制服姿で5~6人だ。

そして、やっぱりすれ違いざまに聞こえてきた。

・・・白い鳩なんていないよねぇ。

・・・うん、いないよねぇ。


女の子のほうは茶髪にルーズソックスで紺バッグ抱えていて、
男の子のほうはつやつやした黒髪に眼鏡をかけてマジメそうで・・・

なんてことはなく

どちらもまったく今どきの、かわいらしい感じの子どもたちでした。




――おかしくねぇ?


――笑。

女性用トイレの秘密

女性というのは
いったいトイレの中で何をしていてあんなに時間がかかるんだろう。


いやもちろん私も女性の端くれなわけですが、
トイレは早い(笑)。
あんなところに長居はしない。

でも
なかには同じ女性でありながら、
いったいどこをどうしたらここまで時間がかかるんだ?と
首を傾げたくなるような人もいらっしゃいますよね。

**********

お友だち4人とお昼ご飯を食べに近所のレストランに出かけた。

まあいろいろあって(笑)、
そのうちの私ともうひとりのママ友がビールをいただくことになった。
(みなさんごめんなさい。夫よごめんなさい。笑)

昼間っから本当に申し訳ないことですが
ジョッキで2杯のビールをいただき
楽しい時間があっという間に過ぎていった。

――いや特別なんですから。
普段からしょっちゅう飲んでるわけじゃないですよ。

そろそろ引き上げようかというころになって
ちょっとトイレに行きたくなってしまった。

レストランの女性用トイレに入ると、そこには先客がいた。

ストライプの細身のシャツをぱりっと着こなしたジーンズスタイルの女性。
おそらくはマダムだろうけれど、髪はショートカットでとてもアクティブな感じ。
私が入ると「お先に待たせてもらってます」というふうに、にっこり微笑んでくれた。
感じのいい人だ。

個室はふたつあって、どちらもふさがっている。

場所が場所だけに
そのマダムと待っている間ちょっとお話でも・・・ということにもならずに、
私と彼女は黙って順番を待っていた。

――1分経過。


――2分経過。


――3分経過。


こっちだってトイレに用があって来ているわけだから
中にいる人もちょっとは考えてほしいよね。
まったく何をしているんだろうと訝りながら
でもやっぱりおとなしく順番をじっと待つ私たち。

でもどっちの個室からも出て来ない。

こうなると
意味もなく咳払いなんてしたくなる。
わざと足音なんてさせてみたり。

でもぜんぜん効き目なし。

・・・具合悪いんだろうか。

いやいやただの無神経な人なのだろうか。

いいかげんにしてよねまったく。

変わりばんこに咳払いなどする私とマダム。


ふっと
どちらからともなく顔を見合わせ、


「これって
 中に人が、入ってるんですよね・・・?」



お互い同時に目の前の扉に向かい、あわててノックしてみる。

――返事がない。
扉を押すと、なんのためらいもなくすっと開いた。


――笑うしかない、昼下がりのとあるひととき。

チャレンジ  2

二度目に中学校校長を訪ねたとき、こんなふうに言われた。

 「最近では
 主にいじめや不登校などが原因で
 学区を越えて中学に入学するお子さんも増えています。
 これからは
 選択肢の一つとして
 やりたい部活動を求めて、というのを加えても良い時代かもしれません。
 どうでしょう。
 小高い丘チームの女の子全員で
 女子バレー部のある中学校の方に入学される、というやり方を
 選ぶ方法というのも考えられなくはありませんね。
 もちろん
 わたしの立場からそうしろとは決して言えない訳ですが。」



絶句した。


**************


保護者のなかにも他に考え方はあって
なにも
バレーボールに固執することもないんじゃないか、
他にも部活動はいろいろあるのだから
若いうちにはいろんな経験をさせてみればいいじゃないか
というような意見もある。

もちろんそれは正しいことだと思う。

だけど
子どもたちが部活動を選ぶときに
バスケもテニスも陸上も卓球も吹奏楽も美術も演劇も新聞もそしてバレーもあって
その中から
バレーじゃないものを選ぶのはその子の選択だ。
でも
バレーがやりたいのに部がない。
男子部でもいいから籍を置きたい。
試合に出られなくてもいいからボールを触りつづけたい。

子どもたちのそんな声を聞いてしまったら
ないものはしょうがない、あきらめなさい
とは私にはちょっと言えない。

だから今
チャレンジをしている。

勝ち目はないかもしれない。

でも
何もやらないで文句を並べたてるより
自分に出来ることをやってから愚痴りたい。
結果がどうあれ。

チャレンジ  1


このブログでは
日常生活においてリアルに進行中の事柄については
なるたけ書かないようにしてきたつもりだ。

理由はいくつかあるけれど、
やっぱりそういう事柄についてだとどうしても感情的になりやすいし、
感情的な文章って
読んでいてもきっと面白くないだろうなというのがいちばんの理由かもしれない。

でも
その禁を犯して(?)
このことを記事にしたいと思うようになってきた。
よろしくお付き合いください(笑)。

************

小高い丘チームでバレーボールをがんばっている
長女を含め6年生の女の子たちだけれど、
実は今
切実に問題になっていることがある。

それは
中学校に女子バレー部がない ということ。

大会でもわりといい成績を収めるようになってきたし
市内のどこの監督さんからも
「小高い丘は強くなったよねぇ」
とお褒めの言葉をいただいている。
なにより今、
みんなボールに触ることが楽しくて楽しくて仕方のない時期。
卒業しても
このまま中学校でバレーボールを続けたい。
だけど中学校にバレー部がない。

毎年このことにはみんな頭を痛めていて
歴代の丘チームの保護者たちも幾度か中学校に掛け合ってきた。
もちろん
今年度だって、私たちも同様に校長に掛け合った。

でも
どうしてもいいお返事がもらえないのだ。

学校側が主張することは

 ・体育館を使用する部活が多く、これ以上新たな部を作っても
  練習スケジュールが組み込めない

 ・新学期の時点で顧問となる教師がいると確約できない

このふたつに尽きるといっていい。


6年生の担任の先生を通じて
まずは中学校側にお願いをしてみた。
それから保護者の名前で中学校に嘆願書を提出した。
さらに
校長とも二度ほど会って直にお願いしてみた。


       もうちょっと続く。

続・落とす人と拾う人


ホテルに勤務していた頃の話。

夜の10時ごろ
ひとりでカウンターに立っていた。

レストランはもう閉店していて、
バーにいらっしゃるお客様が中心の時間帯。
ロビーは閑散としてくる。
ホテルの中は
こういうしんとした時間が一日に何度かあるのだ。

アテンドを兼ねたそのカウンターに立ち寄るお客様ももういない。
そんな時に

「これ、拾ったからフロントに届けておいて」

いきなりそう言われた。

見れば
お顔はよく知っているけれど、顧客といわれるほどではないお客様が
(けっこう失礼な言い方かもしれないね。)
ぽいとカウンターに何か置いていった。
その方はそのまま、あっという間にどこかに行ってしまわれ、
あとには私と、そのモノだけが残された。

手を伸ばしてみて驚いた。

札束じゃん。

無造作に
二つ折りにされてクリップで留められた札束。
日本円で十五万円ちょっとと、中のほうに米ドルも混じっている。

――閑散としたロビー。

――仲間の従業員もひとりもいない。

――このことを知るのは、私と、名前の分からないお客様だけ。

――安月給の身。



悪魔がささやいた。



*************************


結局それは、
外国の宿泊客の方が落とされたものだった。

私のなかの悪魔は見事に天使に敗れ去り、
しばらくしてからそそくさとフロントに届けたのだ。

名前の分からないお客様は、あるレストランの顧客で
お礼が言いたいという、落とし主であるその外国の方のために
半日を費やして、記憶を頼りに探し当てなければならなかった。
忙しい時間帯のレストラン部は
なかなかまともに話も聞いてくれず、
出発の時間が迫っている落とし主のために孤軍奮闘した結果、
ようやく拾い主のお名前などが判明した。
その後のことは
レストランの黒服とフロント・マネージャーに全て任せたので
どうなったのかは分からない。


それにしても
ご覧になった経験があるという方にはお分かりでしょうけれど、


閑散としたホテルのロビーに置き去りにされた十五万円というのは
けっこう迫力があるものです。


しんとしたロビーでね。


悪魔のささやきが聞こえるくらいの。


落とす人と拾う人

    コチラもどうぞ→  授業料


もっと聞いてみると面白いことに
財布をなくす人はよくお金を拾うようだ。

もちろん私の偏った狭い人間関係の中での統計だから、
世間一般に当てはまるかどうかまでは分からないけれど
どうも私の周りではそういうケースが多い。

一度しか財布を落としていない私は
一度だけ財布を拾ったことがある。今度は中学生くらいのときに。
数千円入っていたから、全くよこしまな気持ちもないままに交番に届けた。
すると忘れた頃に落とし主が訪ねてきて、たしか菓子折か何か頂いたような気がする。

なんども財布や現金を落とす夫は
なんども財布や現金を拾っている。
しかも
タバコを買おうと思ったら自販機の下に3万円落ちていたとか
路地を歩いていてふっと通りの向こう側を見たら1万円札がひらひら漂っていたとか
買い物をしていたらデパートの床に2万円落ちていたとか

ちょっと考えられない状況で万券ばかり拾うのだ。

これは
よく財布を落とす人に共通することなんだけど(もちろん私の周りでということ)、
彼ら(彼女たち)はみんな万券ばかり拾う能力を持っているようだ。
そしてだいたいいつも同じようなところで拾っている。
まず自販機の下
それからスーパーやデパートの床やレジ周り
それから細い道。大通りじゃなくて。
特に自販機の下なんて必ずみんな挙げる。
そこには 「よく落ちている」 そうだ。

でも私は一度もそんなすごい光景に出くわしたことがない。

細い道なんてのも不思議な話だ。
それまで誰も、そこを通っていてそんなすごいものに気付かったんだろうか。
ここまでくると、やっぱり能力としか言いようがない気がしてしまう。

************************

というような話を
酒の肴にしてみるとけっこう面白かったりする(笑)。


そういえば
もうひとつ思い出したことがある。


           ――また続いてもいい?

授業料

次女ががさごそと部屋の掃除を始めた。

彼女が
親から言われもしないのに、いきなりこういうことをする時は
何かあるに決まっている。

問いただしてみると、財布をなくしたとのこと。
やっぱりね。

数日前に近所のスーパーで買い物をしたのは覚えていて、
それ以来行方が分からないと言う。

掃除の前に、まずそのスーパーに聞きに行かせたが、届けはないとのこと。
(彼女には内緒だけど、私もこっそり電話で問い合わせてみた)
帰り道にある交番でも聞いたらしい。でもない。

部屋中かたづけてみたものの、結局家の中にもないようだ。

普段から
必要な分だけ財布に入れて買い物に行くようにと
口を酸っぱくして酸っぱくして
絞りたての穀物酢くらい酸っぱくして言っていたのに。

財布の中には三千円入っていました。
――授業料としてはちょっと高すぎやしませんか。

**********************

世の中には
財布を落とす人と落とさない人の二種類が存在するようだ。

私は日常生活においてまず財布を落とさない。なくさない。
私が財布をなくしたのは、今までの人生の中でたった一度きりだ。
たしか小学生の高学年のとき
本屋で立ち読みをしていて、そのまま家に帰ったら財布がなかった。
すぐにその本屋に戻り、お店の人に聞いてみたら
きちんと届いていた。
うれしくなって受け取って中をあけてみたら
入っているはずのお金がなくて空っぽだった。まあ500円くらいだったんだけど。
だけどその一瞬で、ものすごく深く人間不信に陥った。
それ以来、財布をなくしたことがない(笑)。

夫は財布をなくす種類の人間だ。

しかも金額が半端じゃない。
もらったお給料をまるごと落としたことが二度ほどある。
これにはもう二人揃って青くなるしかなかった。
もちろん本人がいちばん青くなってはいたけれど、
なにしろひと月分の生活費である。
すとんとどこかに落としてくるという根性がまったく信じられない。
他にも、運転免許証やらの入った財布をなくしてみたりしている。
それも一度や二度じゃないのだ。
どんなに気をつけてもなくす人はなくす。
それはもう運命としか言えないくらいに。

でもって
私の周りでは
なくす運命の人となくさない運命の人が結婚しているパターンが多いのだ。


             ――ちょっと続いたりして。